好きな飲み物:京都のお酒
理由:丁寧で水が良い
当時は高級品で平民が飲めなかった
愛用品:アメリカ製のライター
:象牙のパイプ
宝物:般若心経が彫られた筆
:翡翠の印材



続:静涯と文子
静涯画伯が生まれた聖地は、長野県の南部・南信州です。日本アルプスの自然美を堪能できる(西に中央アルプス・東に南アルプス)高い山々に囲まれた絶景の地です。冬が訪れると雪が深い地域でした。家に居る時間も長くなり、絵・書・詩を描いて過ごしておりました。鉛筆がなくて、家の暖炉の火を燃やして冷まし、その炭で水墨画(墨絵)を描きました。その日々がきっかけとなり、画家の道を歩んでゆくこととなりました。
続:世外荘親交
台湾に行ってから豊かになり、絵画の世界の扉が開きました。『台湾での生活、食べ物、人も温かく良かった。』『行ってよかった』と思っております。美味しい日本のお酒が飲みたくなり、度々帰郷しました。台湾では、当時日本のお酒を飲むことができませんでした。幾度も、本国への帰郷を考えました。しかしその度に、せがまれて、仕方なく踏みとどまることとなりました。世外荘には、多くの人が集まり交流を深めました。毎晩の様に、はだか電球をお庭に下げて、食事を用意し、宴会をしました。午後になると、仕事を終えた警察官や軍人さん等も集まり、将棋や囲碁・詩や俳句などをして親交を深めました。本土から画家も訪ねて来ました。又、展覧会(府展・台展)には、本国から知人の画家を寄せました。私も多く出かけました。我が家には、お手伝いさん(使用人)もおりましたが、日本の人/外国の人/身分等、分け隔てなく交流をしました。台湾では多くの画家を育成し、共に暮らしました。(食・住のお世話)日本に引き揚げの際の荷物は、一人1000円と、背負える大きさのリックのみと決められました。その為、娘等は何度もリックを縫い直し、荷物を詰めすぎて、背負えなくなり、ひっくり返る事もありました。情勢により、娘達の髪の毛を短くし、赤い服を燃やしたりして、男の子に見える様にもいたしました。ながい異国での生活は『本国に帰りたい』と身を持って感じました。
続:ー引き上げの情勢・引き上げ船の旅ー
=当時の歴史的記載言語表示を御了承願います=
=静涯写真:参照とお使い下さると幸いです=
父:久太郎=母:志寿
長男:静涯
次男:生家在住(長野県)
三男:夫婦で開業医(福岡県)
祖父は詩や俳句の扇風であった
静涯の生家は庄屋であった
静涯は若くして上京した
生存を知らせる為に各地から父久太郎に絵や書を送り続けた
扇風:流行を作り出す人
庄屋:江戸時代の村役人である地方三役の最上位
代官の指揮のもとで村の事務を統轄する者
年貢納入責任をもち村の自治一般をつかさどった
(商店街の一番街)
生家にはお手伝いさん(当時使用人)が出入りをしていた
次男には子供が産まれなかった
=続:生家と静涯子の実録=
代が変わると情勢が変わる
台湾から帰郷後(58歳)都で、画家としての最後の勝負を試みる所存でしたが、長い間離れて暮らした父親が、又離れる事を大変寂しがり、初めての孫を大変可愛いがる為、父親を思い遣り留意しました。私は、生家にある私の作品を父が所蔵庫としていた蔵で、娘達と生活をしました。台湾での暮らしは、食べ物が豊富だったので、娘達は度々泣いておりました。山にキノコをとりに行ったり、手作りの竿で魚釣りをして和ませ、日々を過ごしました。蔵の中の息子の文字(日本留守番時)を読み返しました。台湾では息子も賞を目指して、絵を描きましたが、画家の暮らしは過酷で、複雑な事もある為、自ら落選させました。台湾の病院で息を引きとる時に、その事を後悔致しました。自分の絵は『上手ではなかった?』と問われ言葉を濁してしまった。お前の絵は素晴らしかった。と何故言ってやることができなかったのだろうか。と、早すぎる息子の死を嘆き深い悲しみを知りました。息子等と、妻は台湾で看取りました。妻は本国に帰らなかった私に会いに、長男を私の生家に預け、8歳になる長女と都から船に乗り、台湾に訪ねて来ました。妻が都を出発した翌日の1923(大正12)年9月1日正午2分前に関東大地震が起こりました。船場まで迎えにやった人を『お父さん』と娘は間違えたと言いました。。その後も暫く妻や娘には、会う事はありませんでした。すると、妻は考えた末、芸者をあげ盛大な宴を開きました。何故だか、そこの宴で会うことになってしまったのであります。
=事情と心情のお便りが届いては、『こちらも又、忙しい』と一言お便りを送っていた静涯実録より=
ー続:台湾での暮らしー



父とは、囲碁や将棋お酒を一緒に飲み親子の時間を大切に過ごしました。そして、書や絵をお寺・友人・知人にも描きました。父親が他界し、生家にとどまるつもりでありましたが、次男が跡を継ぎたがり、あれやこれやと、山や土地を整理している最中、私は争う事を避けたいおもいで、三男の暮らす福岡県に身を移しました。福岡では永らく、地元のお屋敷持ちの知人のはなれに、身を置かせてもらい、娘達との生活、仕送り、子等の医療費を工面しておりました。三男の他界時には、次男も福岡県に寄せて、清水で葬儀をあげました。家を構える事ができたのは、暫くしてからの話になります。晩年まで描き続けておりました。次男の死を知る事はなく、私は次男の没から5年後に、この世を去りました。一番長生きした事になります。7回忌で娘達は次男の死と、様々な事を後に知ることになりました。お墓は、私が亡き後、生家に文子が建てる運びとなりました。孫の源一郎とは、5女孝子が病気の為、初めは1歳児から、その後3歳、そして小学校高学年から大学生に入るまで、一緒に娘の文子と共に育て、暮らしました。私が102歳まで長生き出来たお陰で、曾孫の結心が8歳になる頃まで、この世に滞在出来ました。私は『お前さん達は知らんでよろしい』と、秘書文子に諸々託しておりました。
続:静涯63歳福岡移住更なる旅路
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福岡県世外荘での叔母と結心の夕食談話
お教室に来たお客様が、参加費用100円の所を、1円を置いて帰りました。1円と気付きましたが、私は黙って見送りました。夕食時、娘等は、『お父さんは気が付かなかったの?」と言われたので、わかっていた。と告げました。お金を間違えたのか ?… 私が年寄りで目が見えないと思ったのだろうか?と問うと、娘等が酷く怒るもので、、私は『お前さん達、覚えておきなさい」やった側は例え忘れたとしても、やられた方はしっかりと学ぶ事もあるもんだ。と、そして悪い心で騙した側は、罪悪感が知らず知らずに積み重なる。。正当化しようもんなら、事実は自分に嘘をつけない。つまり、人柄とは滲み出るんだ。と諭した。しかし娘等は、淡々と、次は指摘をして、注意をするべきだと。言うもんで、見ていなさい。そう言う人間は、次は来ない。来れない。と、大笑いをした。。。
=という話を静涯の娘等は、大きな声で大笑いをし、私にいくつもの談話を話してくれました=
=生涯守り抜いた文子は、明日には全部持って行きなさい。貴方に託す。と深く頭を下げた。=
その後、会えなくなってしまった
続:心と誇りの継承
世界に残し心に刻む
偉人達の記録
信念・勇気・誇り・願い・語り
ー木下静涯プロジェクトー
歴史・作品・人格・存在も
知って頂くプロジェクトです

感動の共感を
お祈り申し上げます
=穏やかで食卓を囲み良く笑う静涯おじいちゃんを想い浮かべ邁進する所存です=






有難う
『皆みんな助けてくれてありがとう』
ママは辿り着く。
静涯じいじ待っていてね!!