藤島武二
1867.10.15-1943.3.19 享年75歳
慶応39-昭和18.3.19
明治-昭和に活躍
洋画家
出身:薩摩国鹿児島城下池之上町
薩摩藩士
鹿児島造士館/東京仏語学校に学ぶ
師事:四条派/川端玉章日本画を学ぶ
現在日本画の作品は殆ど現存しない
24歳:洋画転向
『黒田清輝も認めた』
1歳年上:黒田清輝推薦
に推され半世紀にわたり生涯指導にあたる
本郷駒込曙町画塾も開く
明治38年/1905文部省より4年間留学を命じられた
1月18日渡欧/フランス/イタリア
1910年1月21日帰国後:美術学校教授就任
川端画学校/教授務める
文展や帝展の重鎮として活躍した
初代:文化勲章受賞者の一人
『伊藤博文公肖像』山本芳翠
1903年 岐阜県美術館//伊藤博文首相一行に沖縄巡視旅行同行した
藤島武二
静涯庭所蔵
修復中1月中公開
114×44
『幣原坦の歌と共に』
幣原坦: 台北帝国大学初代総長
日本東洋史学者/教育行政官
幼名:徳治郎(とくじろう)
44代内閣総理大臣
幣原喜重郎
『幣原坦の弟』東京帝国大学法科卒業
40〜44代:外務大臣
外交官/政治家/大使館参事官/外務大臣
貴族院議員
加藤内閣/若槻内閣/浜口内閣/外相
国際協調
中国内政不干渉の幣原外交展開
第二次大戦後
天皇制維持
新憲法草案作成をめぐりGHQとの交渉に当たる
22年衆議院議員/24年衆議院議長
続:与謝野晶子と藤島武二
1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。
晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年(昭和9年)12月3日帝室技芸員[6]。1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。受賞の報は満州に旅行中に受けた[7]。 1939年(昭和14年)4月に発足した陸軍美術協会では副会長に就任[8]。し、同年7月に協会主催で開催された第一回聖戦美術展では審査委員長を務めた
引用:wikipedia
続:師事/川端玉章
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