蓮月尼
大田垣蓮月/1791-1875享年84
俗名:誠(のぶ)
幕末から明治初期/京都に生きた
江戸後期の尼僧・歌人・陶芸家
実父:伊賀国上野の城大家老/藤堂良聖
生後10日養女となる
養父:大田垣光古/山崎常右衛門
知恩院勤仕であったが知恩院の譜代に任じられ
知恩院門跡坊官となる
室町時代に栄えた因幡/但馬で栄えた
山名氏の重臣の子孫
養父には5人の実子がいた4人は養女になる前に亡くなり
成人.末子/仙之助:亀山に奉公時期に病没した為
但馬国城崎庄屋銀右衛門の四男天造を養子に迎え名は望古。
亀山/奉公を終えた文化4年/1807年 :誠.のぶと望古は結婚した。
長男鉄太郎/長女/次女が生まれた.が幼くして亡くなった。
文化12年/1815年夫望古亡くなる。
誠25歳寡婦となる。
望古の死4年後.文政2年.1819年誠:大田垣家養子.古肥と再婚。
一女が生まれた。
文政6年.1823年古肥と死別。
誠:仏門に入る.養父光古と剃髪。
古肥との女児が亡くなりその"年後養父も亡くなる。
蓮月は陶芸により生計をたてた。
自作の焼き物に自詠和歌を釘彫りで施した
作品「蓮月焼」は京土産として人気があった。
美貌から言い寄る男が後を絶たなかったので
蓮月自ら歯を抜き老婆を演じたと言う説もある..
幕末の戦乱に心を痛め10年の歳月お金を貯めて鴨川に橋をかけた.
蓮月は西郷隆盛に和歌で心を動かした
「あだみかた勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」
「討つ人も討たる人も心せよ 同じ御国の御民ならずや」
=国の中で人が殺し合うようなことになってはいけない=
浦賀に異国船が来たことで端を発した騒擾が起こり、諸藩の思惑の絡んだ争いへと発展。
江戸に下る西郷に三条大橋で蓮月が手渡した短冊を大津の軍議で諸将に和歌を示した。
==晩年==
多くの文人/著名人と交流した
筆記:静涯結心