太田南畝
蜀山人1749.4.19-1823.5.16享年75歳
江戸時代中期/後期
幕府官僚/*勘定所勤務/*支配勘定に上り詰めた
万人の笑みを誘う長崎情緒を歌い
江戸の代表する狂歌師
五七五七七の歌を面白おかしく詠む
文人/御家人/戯作者/学者
文筆では高い名声を持ち随筆を残す
洒落本/漢詩文/文化人/黄表紙作者
3000人超えno門人がいた
山手連:四方側と称される
太田南畝/唐衣 橘洲/朱楽菅江
武士と町人の身分を越えた交流が生まれ
絵画/文芸が花開いたと語られている
父は幕府の小吏/出身:江戸牛込:新宿区中町.下級武士の貧しい家だった.幼少より学問:文筆に秀でた為/15歳江戸六歌仙の1人内山賀邸:内山椿権に入門した。札差から借金をしつつ国学/漢学/漢詩/狂詩/を学ぶ。17歳に父の跡を継ぎ幕臣となる。70余歳まで支配勘定役などをつとめた。学問も続け18歳の頃に萩生徂徠sorai派:松崎観海に師事した。作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行した。
別号:*蜀山人:しょくさんじ
四方赤良:よものあから
*蜀山人/大阪銅座に赴任中国で銅山を[蜀山]と因み号にした。
*勘定所/江戸幕府や諸藩において財政.民政の担当役所。
*支配勘定/勘定奉行配下の役人:筆算の才能が必要であった。
*辞世の歌/この世に別れを告げる:この世を去る時/詠む短型詩。
蔵書印//引用:国立国会図書館
「南畝文庫」印を巻頭に「大田氏蔵書」印を巻尾に押して2種を併用していることが多い。
ほかに「杏園」「蜀人」「蜀山人」「南畝」がある。印影のよみ・大きさ
「南畝文庫」(なんぽぶんこ):26x27mm
「大田氏藏書」(おおたしぞうしょ):40x12mm
今までは
人のことだと
思ふたに
俺が死ぬとは
こいつはたまらん
静涯庭研究館
筆記:静涯結心
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